自分にとってどうにもできないと考えることは、どうにもできることだと思うおはなし | 「嫌われる勇気」より | しぶたろーBLOG
”自分にどうにかできることとはなにか。”
この問いの答えは人によって異なるだろう。
周りに気を使っていた私だったが
「嫌われる勇気」を読み、以下の二つのテーマについて考え、無駄に悩んだりせずにすきなブログやYouTubeをはじめることができたと思う。
- 悩む必要がないこととはなにか
- どうにかできることとはなにか
悩む必要がないことはなにか
ある日歩いていたら、
暴走する車が自分に突っ込んできたとする。
自分は幽霊になって事故現場を見つめている。
幽霊になった自分は考えるだろう。
「自分にどうにかできることはなんだったのか」と。
あり得ない話ではないと最近の報道を見ていると思う。
自分の生死さえ、どうにもできないときはどうにもできないのが、この世界で生きるということなのかもしれない。
そう考えると、あれも、これも、ほとんどのことは自分にとってどうにもできないんじゃないか、そう思えてくる。
それは喜ぶべきことでもあるかもしれない。
悩む必要がない悩みがあるとわかれば、その分、こころ穏やかに人生を過ごせるからである。
自分にとってどうにもできないことを把握できることは、人生をストレスなく生きる上で重要なスキルとなるはずだ。
幽霊になっても開き直ればよい。
「しようがないや」
「嫌われる勇気」
では自分にとってどうにもできないことのひとつとして
周りのひとにどう思われるか
というものがあげられている。
自分のした行動を周りの人がどう思うかは
周りの人の問題であり、自分の問題として抱え、悩むのは間違いだという主張だ。
確かに、誰かがどう思っているかを完全に自分が理解することはないのだと思うし、自分の行動を説明して相手に完全に理解させるのも難しい。
(人をわかるということは人はわからないものだとわかることだと思ったおはなし | 伊坂幸太郎「重力ピエロ」の春の言葉より | しぶたろーBLOG)
周りの人や自分がどう思おうがそれは誰かにとっては捉え間違いであり、悩む必要のないことなのかもしれない。
どうにかできることとはなにか
では、私たちはなにに喜び、悲しみ、悩むべきなのだろうか。
自分にどうにかできることはあるのだろうか。
では、自分にどうにかできることはないと、仮定してみよう。
自分にどうにかできることはないのは、楽である。自分にどうにかできることはないので、すべてのことに関して、悩む必要がなくなる。それは全部自分のせいではないからだ。
自分という性格をもって産まれたこと、それによって喜んだり悲しんだりすること、すべて自分のせいであり、自分のせいではない。
ただ一方でこんな考え方もできるだろう。
私は今、自分にどうにかできることはないのかもしれないと考えられている。
明日、もっと大袈裟に言えば1秒後、不慮の事故で死んでも自分にはどうにもできない。が、今確かに生きていて、自分の思い通りに考えを巡らせたり、行動を選択できるということは、紛れもない事実だ。これこそ、どうにかできることなのかもしれない。
「人生を複雑にしているのは自分であり、人生はいたってシンプルである。」
「嫌われる勇気」で強調されていたアドラー心理学の考え方だ。
究極に言えば、なにかをしなくてはならないのは自分のつくりだした未来や過去のことで、今旅に出掛けることもできれば、のんびり日光浴することも自由である。今というこの瞬間になにを思うか、どう生きるか、それが、自分にどうにかできることであり、人生を懸けて集中すべきところなのかもしれない。
なるほど、確かに人生はシンプルか。
平等に与えられている今というこの瞬間を、自分はどう生きているか、常にどうにかできるひとでいたい。