人をわかるということは人はわからないものだとわかることだと思ったおはなし | 伊坂幸太郎「重力ピエロ」の春の言葉より | しぶたろーBLOG

体験談

伊坂幸太郎さんの「重力ピエロ」を読んだ。

登場人物の春や泉水に感情移入しているうちに、”その人らしさ”を知るということはどういうことなのか深く考えさせられたのでここで私の考えをまとめたいと思う。

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「人はものごとに理由をつけたがる」

「人はものごとに理由をつけたがる」

「重力ピエロ」で春がはなったメッセージだ。

春は物語のなかで何度も印象的なフレーズを言い残す。
そのなかで私はこの言葉が一番印象に残った。

人は自分の理解できる範囲で物事につい理由をつけてしまう。
それは人が自分一人の世界に入り込むことを意味するのだろう。

「あの人はどうしてこんなことを言ったか。」

「私がこんなことをしてあの人はこう思ったはずだ。」

人をわかろうとする方法を誤ると
人は人がわからなくなる。

その誤りとは
人をわかると思い込むことなのだろう。

私は人をわかることはないのだと思う。
そしてそれを誇らしく思っている。

わからないとわかっていることは
わかることにたいして
謙虚で誠実で美しいように思えた。

ちまたでは、心理学系YouTuberやtiktokerが人を惹き付ける方法という題目でコンテンツを並べていたりする。

私はひとりひとりと向き合える人間でありたいし、自分にたいしてもそうであってほしいと思うから
そういった普遍的なコツや近道を参考にできる日はこないのだろう。

わからないことをわかっていたいと私は述べた。
それはひとをわかることを諦めている訳ではない。
むしろ、わからないからこそわかりたいと思えるのであった。
そのときそのときのその人を尋ねられる人間で私はありたい。

どれほど付き合いのある人にだって
いつだって「はじめまして。」と。

それは自分にたいしてもおなじだ。
自分のことをわかったように思うことは自分へのおごりであるように思う。
だからたまに、言葉にすることをためらうときがある。言葉は、誰にでもわかると、思われてしまうものだからだ。

「重力ピエロ」で春は
自分のアイデンティティと、遺伝や過去、未来、環境といった”理由”とをたたかわせてもがき続けた。

本のなかで春と私に付き合いがあったとしたら、
はじめましてと何度も春に尋ねたい。
その瞬間その瞬間のその人を尋ねられたなら、
その人の信じるその人らしさを
少しだけでも教えてもらえるんじゃないか、そんな気がしている。