自分は知らないひとの顔をみるのがすきだったのかもしれない

考えた話

コロナという感染症が流行りだして3年が経つ。

「自分は知らないひとの顔をみるのがすきだったのかもしれない」

ずっとなにか違和感があって、ずっと言葉にできないでいたけれど、そう思ったときスッとふにおちた。

散歩していてたまたますれ違うひとの顔、旅行先のお店で会計をしてもらうひとの顔、スクランブル交差点でつぎつぎにやってくる顔。

私にとって知らないひとの顔が自分の目にはいるということは、外を出歩いている実感がわくきっかけでもあり、心の落ち着くスイッチが押される現象でもあった気がするのだ。

たとえば、夏の風物詩、お祭りを想像する。

「浴衣をきて話しながら歩いている楽しそうな表情」

「射的の景品がほしくて駄々をこねる表情」

「肩車をして家族サービスを頑張っている表情」

そんなふうに、知らないひとの表情がふわっとまず浮かんできて、そこから屋台の香ばしい匂いがしてくるような感じがある。

全く知らないひとだし、話すことはないこともあるけれど、勝手に親しみを感じてしまうのかもしれない。

なんかいいなあ、幸せだなあ、というところまで結び付いていたりする気がする。

ふと視界に入ってくる、知らないひとの顔は、私の外の世界の印象の大きな部分をかたちづくっていたのかもしれない。

だから、私にとっていまは、昔に比べると、無味無臭みが深いような感じがする。

3年経ったけれど、誰もがマスクをつけているこの状況に慣れることはないのだろうな、と思う。

もちろん、マスクをつけることを否定したいわけでもないし、だからなんだということもない。

ただ、全く知らないひとの表情に、ときに、救われながら生きていたんだな、と思うのである。

マスクせずに、思いっきり外で叫んだり、笑ったりする日が私は待ち遠しい。

みなさんはコロナが流行して3年、なにを考えるだろうか。

それではまた月曜日、お会いしましょう~。