エモいとはなにか、真剣に考えてみた

考えた話

2022年は夏である。

暑い。暑すぎる。

「今年の夏は暑い」
「過去最高の猛暑」

毎年そうボヤいている気がする。
大丈夫か、ちきゅうよ(地球をゆする)。

「今日はだらだらの日だ」

クーラーの効いた部屋でぼうっと横になっていると普段考えもしないことを考えてしまう。

「なんともね、エモい表現になったのではないでしょうか」

カメラマンYouTuberが自身の撮った写真をそう説明している。
ぼうっとみていたせいか、普段あまり疑問をもたなかったところが気になってしまった。

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エモいとはなにか

エモい…とは…果たしてなんなのか…。

「エモい」とは不思議な言葉である。

少なくとも私が幼少期の頃にそれはなかった。

誰がつかい始めたのか…。
わからない。

どのようにして広まっていったのか…。
わからない。

だが言いたいことはわからなくはない気もするし、だからといってわかると自信をもっているわけでもない。

そんなことを考えながら辞書を引いてみるが、もちろんみつからない。

それぞれがそれぞれの感覚でそれをつかっているのかもしれない…。

ひとりひとエモ。

今回は私のエモについて考えてみた。

私の思う「エモい」の共通点について、こう思う。

「妄想を掻き立てられる体験」である、ということだ。

例えば素敵なポートレート写真を観たとき、次のことを思ったりする。

「この被写体に映っているひとはどうしてこんな表情をしているのだろう。」

表面的な色合い、形状の美しさから、意味合いの部分、背景の部分へ想いを巡らせる過程が生じる。

どこか、答えが明快にきまっているという印象よりかは、それぞれが自由に想像できる「隙」がある写真がエモい感じがするのだった。

例えばお気に入りの曲を聴いたら、思い浮かぶ空想上の世界がある。

見たことのない建造物、ぷかぷか漂ったり時速100kmで突き進んだりする浮遊感や勢い、めにみえる模様に加えて、鼻につくツンとした匂いや味…。

聴覚的な入力をして、自身のからだのなかで新しくそれを再出力できるようなとき、エモいと感じる気がする。

また、餃子の匂いをかいだとき、フラッシュバックする情景がある。

亡くなった祖父や祖母とへんてこりんなかたちの餃子をつくって食べた記憶がある。思い出になっている記憶は自分の感情が色濃くのっていたりするから、事実というよりかは妄想というほうが、もしかしたら近い場合もあるのかもしれない。

匂いの情報から、当時の目線になってみえていたものがみえる。どれも同じかたちにするのがつまらなかったな。

今の自分の目線ももちあわせていたりする。寂しく思うほど、それほどの幸せを貰っていたんだな。どこか心地のいい寂しさである。

こんなふうに餃子から情景が広がっていく様子もエモいと言える気がする。

妄想とか空想は時に、幻や虚像としてないがしろにされることもあるかもしれない。

けれど、私はこれをふくらませていくことが生きる本質のように思えてならないときがある。

例えば、人間は死ぬまで夢をみられるのか、という問いがあったとする。

そのときそのときふくらませている妄想があったらそれは立派に夢をみていると言えるんじゃないだろうか。きっと空想の世界観は自分だけのもので、果てしなく、若さも老いもない気がするからだ。

窓から通り過ぎていく知らない街をぼうっとみて、ここで育っていたら自分はどんな生活をしていただろうと考えてしまうとき、夜お気に入りの音楽を聴きなから妄想のなかをお散歩しているとき、それは人生のご褒美タイムである。

今回は「エモい」について、少し噛み砕いて言葉にする挑戦をしてみた。

「エモい」とは、「自分の妄想を掻き立てられる体験」であり、「生きる本質的な喜びを教えてくれるサイン」である、そう今の自分はひとつの結論を出した。

皆さんは「エモい」と聞いて、なにを考えるだろうか。

書かれた文章を読んだり、撮られた写真や動画をみたり、つくられた音楽を聴いたり、また、言葉を聞いたり、他者の夢の中を少し覗けた気分になっているのは私だけだろうか。

今回のブログはこんなところで終わりにしたい。

また月曜日にお会いしましょう~。