祖母の四十九日を終えて

考えた話

先日、祖母の四十九日があった。

祖母は向日葵のようなひとだった。

ここ数年は老人ホームで過ごしており、担当についてくださっている方によると、わがままを言ったり、駄々をこねることもあったみたいだった。

認知症も進んでおり、午後には午前中のことは忘れてしまうような感じだった。

が、私が訪れると、いつも変わらない祖母がいた。

「○○(私の本名)はかわいいねえ。」

私はもうかわいいと言われるような年齢ではなく、男だから、かわいいとかよりもかっこいいとかの方が上手にリアクションできるんだけどな、と思いつつ内心はとても嬉しかった。

なぜなら、祖母の祖母らしい笑った顔がみれるからである。

施設のコロナの観戦予防対策でタブレット越しの面会になったりしても、最後まで祖母はたしかにそこにいるような感じがした。

祖母はとても尽くしてくれるひとだった。恋愛でいったら、きっと尽くしすぎて引かれるタイプかもしれない。よかれと思うことはしてくれて、ほんわかした笑顔、口調で私を癒し、照らしてくれるひとだった。

この世に当たり前はないと思う。だから、ずっと優しかった祖母だが、私を飽きることもできたし、嫌いになることもできたし、その日の感情に任せて怒ったりすることもできたと思う。その方が楽だったこともあったんじゃないかと思う。

だが、祖母は毎回、優しい祖母でいることを選んでいてくれた。

優しいか、怒っているか、素っ気ないか、それは実はどれでもよくて、ただ、私に対してまっすぐに向きあってくれている祖母がおり、それが祖母らしい優しさとしていつも感じとれて嬉しかった。

「照舞」

お墓にはそう法名が刻まれていた。

” 照らして舞う ”

ゆらゆら揺れる大輪の向日葵をみるたび、祖母の面影が感じられるようになりそうだ。